新年あけましておめでとうございます。近年、震度が大きめな地震や、線状降水帯発生による増水被害の頻度が多くなったと思いませんか。昨年は元旦の日に発生した能登半島地震(震度7)が鮮烈に記憶に残っています。私たちは日ごろからの防災意識を持った暮らし方を心掛けたいものです。
2025年元旦
政府「注意報」発出で「南海トラフ」が現実味
昨年は元旦の能登半島地震のほか、8月8日、震度6弱の宮崎県日向灘地震が発生しました。これを受け政府は初めて「南海トラフ地震臨時情報」(注意報)を発出し、国民に避難準備を呼びかけました。これを受け、国民の誰もが「南海トラフは現実に差し迫った!」という印象を持ち、今にも起こり得る緊迫感に包まれました。
筆者の知人は三重県に居り、聞いたところ「スーパーから飲用水、カップ麺などの備蓄用食品、簡易トイレなど避難グッズが一斉に買われて棚から消えた」と当時の様子を語っていました。これに加えるならば、簡易照明や携帯型ガスコンロ、雨風から防護する防寒具・カイロ、救急医療品など必須と言えます。
近年の記憶に焼き付いた大地震を振り返っても「1995年阪神淡路」「2004年中越」「2011年東日本」「2016年熊本」「2018年胆振東部」そして2024年の「能登半島」「日向灘」があります。
地震のほかにも、「ゲリラ豪雨」は短時間で局所的に一挙に降る大雨でアスファルトに覆われた大都市では鉄砲水が発生し、道路が冠水したりします。「線状降水帯」は雨雲が一地域に居座り、雷を伴い大雨を降らせます。毎年、土砂崩れ、河川氾濫の被害が出ています。 元旦に地震が起きた能登では9月にも大雨による大水害が発生しました。幾日も降りやまない雨が記憶に残っています。地震の復旧が遅れていたことも仇となり、緩んでいた地盤のあるところでは土砂崩れや土石流があちこちで発生しました。このさなか、国会では与野党は裏金問題の攻防戦を繰り広げており、筆者は日本政治の底の浅さに大いに失望したものです。「何が緊急の事案か」、そこに議論をもっていかないと予算執行もできません。政治家もマスコミも優先順位をつけるべき。
「災害に強い国土づくり」、「災害があった時の迅速な復旧活動」の一致した考えで政治は進められなければなりません。国土が急峻にして窮屈な日本はハザードマップを広げれば、危険個所が各地各所に無数に点在します。窮屈な地形ゆえ危険性も潜むのです。
各地の避難民受け入れも想定した防災立国・北海道を建設しよう
避難者受け入れを想定防災立国づくりに着手
広大な北海道だからできることはたくさんあります。都市機能(教育・医療・交通など)が整っている市部も郊外に行けば広大な遊休地が膨大にあります。ここに避難者の受け入れを想定した都市計画を立てておきます。災害時を想定した連携協定を都府県と締結し、迅速に対応できる仕組みがあればベストです。
開拓時代、奈良県十津川村の住民が地域挙げて北海道に移住してきた歴史があります。そう、空知管内の新十津川町が先発例です。
十津川村が大洪水に見舞われ、一切合切洪水に飲み込まれ「復旧困難」と見た住民たちが集団移住してきたのです。復旧に5年、10年と人生を費やすのもひとつの生き方論ですが、新天地を求めて(長、短期間か問わず)移動することも一つの生き方ではないでしょうか。
大地震、大災害が実際頻繁に起こる現実を鑑みると全国の中で広大な平野部を持つ北海道こそ、その候補地になれるのではないでしょうか。
これまでいろんな特区が話され、そのどれ一つも道民に周知されていない行政の流れでは先々を描けません。「北海道の得意分野を総意で動かす」そんな行政であってほしいものです。
2018年9月6日胆振東部地震の厚真町の崩落現場(翌年の7月撮影)
特別な北海道の歴史を逆転の発想で活かしきる
北海道150年の歴史に〝大移動する節目〟がこれまで2度ありますが皆さんはわかりますか?
一つは開拓時代初期で旧士族の不平を鎮めるという意味もあった屯田兵による開拓(兵役と開墾)を勧める屯田兵制度がありました。
さらに本土から辺境の北海道に追いやった囚人たち(凶悪犯・不平武士による乱などで刑を受けた囚人)の収容施設である囚治監が複数設けられ、囚人の労役で幹線道路や鉄道、炭鉱などの鉱山、農地・用水路など北海道の産業を支えるインフラが整えられていきました。
明治以降の歴史で囚人の労役は北海道だけの特殊な事例です。当時の役人は「口減らしに死んでもかまわない」とさえ言い切ったのです、北海道史に残る酷い話です。屯田兵と囚人ばかりではありませんが、役人以外は各地の藩や集落単位が大移動してきたのです。
二つ目の大移動は終戦直後です。戦後開拓期ともいわれています。敗戦した日本では復員兵や海外の開拓農民がみんな本土に帰還しました。当時は食糧難、国民の食べるものに困った政府は食糧増産の号令のもと、北海道へ帰還者を農業者に見立てて送り込みました。
これには別の意味も隠されていました。戦争で疲弊した本土には仕事も少なかったのです。さらに終戦直後抑留されて解放された帰還者はみな「社会主義の影響を受けている」と見られていました、だから「帰還者は辺境へ飛ばす」、そんな意味もあり終戦直後の「第2開拓時代」の大移動があったのです。
胆振東部地震のとき、札幌でも液状化で大きな被害が出る(里塚地区)
厄介米から上質米へやる意思があれば可能
歴史的には厄介者たちを追いやる地が北海道でしたが、今度は日本の中で都府県より有利な分野で存在感を示す、今が絶好の機会なのです。
国の政策に黙って動員をかけられるのではなく、自らが構想した政策に中央の目を向けさせる、「言いなりになっていた北海道のイメージを一新する」のに、今はいいチャンスです。明治期は「米栽培禁止」でしたが中山久蔵がひそかに栽培し成功しました。すると誰もが米作りを始め、食管制度の下、国は全量買い取りましたが本音は「厄介米」の存在でした。今では全国を席巻するほどの上質米です。堅牢な意思を通せば北海道はきっと自己変革できます。
(山田