「開拓」のことばを聞いてすぐに連想するのは、明治に入り、蝦夷地が北海道に改名され「開拓使」が設置されていた時代のイメージが強い。しかし、北海道には「戦後開拓」の時代があった。敗戦で失った海外の植民地から帰還者・復員者が大挙帰国し、国内は食糧不足や働き場確保で大混乱した。そこで政府は5年間で100万戸を帰農させ、米換算で1,600万石の生産を上げようとする壮大な計画を立てた。
篠津運河
北海道の2大候補
1945(昭和20)年の終戦とともに兵役からの復員者や外地からの帰還者が一斉帰国し、食糧難に加え、働き場の確保も大問題になった。
その大量の食糧と働き場確保の両面を解決しようと候補地として着目されたのが北海道地域の未開拓地だった(緊急開拓事業実施要領)。
しかしながら優良な候補地は明治期の入植者によって開拓が進んでおり、困難を極める不良地だけが残っていた。こうした過酷な条件の付きまとう地域に入植したのが「戦後開拓」でやって来た帰還者たちだ。泥炭地や繰り返される水害多発地、冷涼地域がいわば売れ残りだった。
このうち代表的国策事業が「石狩中央部泥炭地帯かんがい事業(篠津運河)」と、1961年に始まる別海の「開拓パイロット事業」だ。
篠津運河
篠津地区は泥炭地、幾人もの入植者はいたが誰もが投げ出した。戦後、食料を増産すべく国営のかんがい排水事業として始まり、完成したのが「篠津運河」だ。
篠津地域泥炭地開発
石狩川下流域は温暖な気候の上、平たん地かつ水利もよかったが、耕作する上では困難な泥炭地だった。当初は排水施設として「篠津運河」を掘削し、排水路を整備する計画だった。その後、国際復興開発銀行(現・世界銀行)からの借り入れを受けて「篠津地域泥炭地開発事業」という総合開発事業になった。
江別市、当別町、月形町、新篠津村にまたがる石狩川右岸の11、400ha のエリアで、20年の歳月をかけて昭和46年(1971年)完了した。当時の金額で210億円だが、現在の貨幣価値に換算すると830億円に相当する額だ。
根釧パイロットファーム
今では日本一の酪農集積地帯となっているが、最初から家畜型農業を目指したわけではない。別海町の開拓は1898(明治31)年から始まり、海側から内陸部へ進められた。当初は豆類・雑穀を主体とする農業だったが、幾度となく冷害凶作を経る中で、徐々に酪農一本へ舵を切っていった。
戦後開拓の主畜農業へ
1954年、酪農振興法ができ、国の政策として方向性が〝酪農業〟と定まった。家畜導入の資金、トラクター導入の資金、飼料自給経営地の設定についての補助、サイロ・畜舎の建設に融資がつく。根室管内は高度集約酪農地域に指定される。
1956年に「根釧パイロットファーム」への入植が開始された。この年の「経済白書」では「もはや戦後ではない」と記され、復興経済の終了を宣言し、「この先の成長は近代化によって支えられる」と記されている。しかし、都市産業に若年労働力が集中し、農村部は離農が加速し、国の予算も停滞気味になった。営農と開墾、限定的人手では困難を極めた。そこで立案されたのが、代表的な開拓地区を決め、そこに試験的新営農方式を確立して、年間一戸当たり110万円の粗収入を上げる経営を目指し、ゆくゆく全開拓地に適用する計画であった。
1955年道において選考基準が定められ、70名が通った。実習場で訓練、各戸有機的に連携し、生産物の共同販売、営農資材の共同購入など共同化が図られた。1956年「根釧パイロットファーム開拓農協」が設立された。
開墾も住宅も思うようには進まず、ジャージー牛も伝染病が発症し、さらに肉質も落ちることからホルスタインへチェンジされた。しかし、収益は好転せず1961年頃には無断離農者も出た。緊急開拓以来の戦後開拓方式は終わりを告げ、新方式による開発へ移行した。失敗例が多く、評価は分かれるが機械開墾と主畜経営を推進する上での先駆的な役割を残した。
ここまでが「戦後開拓」といわれていた期間ではないだろうか。
1973〜1983年の10年間で総額935億円投入され、「新酪農村建設事業」が国家プロジェクトとして動き出した。大規模で高能率的な畜産経営農家を創設すべく計画されていった。
根釧パイロットファーム事業は『別海町郷土資料館豊原分館』内にコーナーがある。別海町を訪ねる機会があればここをご覧あれ。
(文・山田)
別海町郷土資料館豊原分館(パンフレットより抜粋)